不思議な話〜西穂高岳
生きている間には誰でも不思議な経験をするものだ。
私の場合は登山の時に。
ずいぶん昔になるが、西穂高岳に登ったことがある。
ヒマラヤ登山の経験のある35歳でアーティストのH氏。
素人ながら登山に経験豊富な同じく35歳で、精神医学者のW氏。
そして、私の三人のパーティー。私は当時26歳。歌い出して数年が経った頃。
気象予報が全く外れて、歩き出してすぐに雨が降り出した。山の雨は都会の雨とは違う。
やがて本降りになり、足元の土砂がみるみるぬかるんできた。
本来なら、ここで登山はやめるべきなのだろうが、やがて止むとの判断で登り続けた。
歩き出して1時間以上経過したところで川に出た。
しかし川にかかる橋が大雨により壊れていて、対岸に渡れない。
仕方なしに来た道を戻った。雨で先ほどより歩きづらくなっている。
しばらく歩くうち、川に出た。古い丸太を利用した橋がかかっていた。
丸太一本で、その丸太も決して太くない。
「ここを渡るの?」
「そう、ここしかないから気をつけて渡って。川に落ちたら死ぬよ。だから気をつけて。」
雨でその丸太の橋は滑りやすくなっている。
下を見ると大きな岩の中の激流が見える。何十年経っても、その川の激流の光景は忘れていない。
「わかった。」
私はそう言いながら丸太を渡り出した。無謀で怖いもの知らずな若い時。
一瞬足を滑らしそうになったが渡ることができた。
「怖かったなぁ。」
「うん。そうだね。でも、もう少し慎重に渡らないと、本当に危なかったよ。君は危なっかしいな。」
そう言われて、体が少し震えた。
その後は裏道、つまり普段使用されている登山道から外れて歩いた。そのためかなりの時間を要した。水も飲まず、何も食べず歩き続けた。雨は上がっていた。
いつしか夕闇に包まれ、やがて漆黒の闇が訪れた。その夜は新月。月の明かりは全くない。
漆黒の闇とは、自分の手を目の前に持ってきても何も見えないものだ。
静寂と漆黒の闇と空腹と疲労で私の神経は極限になっていたようだ。
弱い光のヘッドライトだけで歩き続けた。
ふと、笑い声が聞こえた。そのうち、楽しく酒盛りでもしているような数人の笑い声が聞こえてきた。
「あれ?誰か宴会してる。楽しそう。でもこんな極寒の中で宴会なんて、酔狂な人もいるわね。」
「ん?そんな声は聞こえないよ。」
「え、ほら、あの笑い声。楽しそう〜。」
「山は不思議なんだよ。時々、人の楽しそうな笑い声や話し声が聞こえるんだ。でも、誰もいないんだよ。なんなんだろうね。山を愛した登山家が山で亡くなって、その魂の声かもしれないな。」
標高が上がり、山道には雪が積もり出した。雪はどんどん深くなる。
前方に明かりがチラチラ見えた。
誰か登山者のライトに違いない。
その人に追いついた。一人で登山をしていた30代くらいの男性。
「こんにちは。今日は雨で散々ですね。お一人ですか?よかったら、一緒に歩きましょうか。」
H氏が言った。
「そうですか。ありがとうございます。」
その男性の登山家と4人で歩き出した。皆黙々と歩いた。
微かな明かりだけで歩いていたので、雪で岩が見えず岩の側面に足がずぶりと埋もれて、その時に膝頭を強くぶつけた。
私はその痛みに思わす泣き出した。それも子どものようにわぁ〜と泣き出したのである。
もう歩けない、もう怖くて嫌だ、帰りたい・・
いつの間にかふわりと体が浮いた。気がつけば、私はH氏におんぶされていた。
え?
「大丈夫、おぶってあげるから、このまま歩いてあげるから心配しなくて大丈夫だよ。」
私は子どものように背負われながら、うん・・と言った。
しかし数メートル歩いてくれたところで、私は我に帰った。
「あの、もう大丈夫。歩けるから。ありがとう。」
情けなく恥ずかしく、でも嬉しかった。
少し休憩しようということになり、合流した男性からチョコレートをもらって皆で食べた。
どんなに嬉しく美味しかったことか。体力も回復したような気になった。
涸沢大雪渓を渡り切り、山小屋の近くまで登ってきた。
「山小屋この辺だと思うんだけどな。」
漆黒の闇は、柔らかなライトも闇に吸い込む。何も見えない。
「しばらくここで待っていて。山小屋を探してくるから。」と、H氏。
「では、僕も探しに行きます。」と、チョコレート氏。
W氏と私はその場に佇み待っていた。
「多恵さん、ここは涸沢大雪渓の斜面だから、足を踏み外したら何百メートルも落ちるから、動かないでね。それに獣の声もすぐ側で聞こえるから。」
獣はいないだろう。でも、なんの声だろう、この唸るような声は、風の声か、獣の亡霊なのか。
「脅かさないで、怖いんだから。」
そう話すが、W氏の姿は見えない。息遣いだけが聞こえてくる。
極寒の漆黒の闇の中、1時間以上も佇んでいた。寒さは感じない。その代わり、怖さで体が震えていた。あたりのものは何も見えない代わりに、様々な声や物音が聞こえていた。
ようやく、H氏が戻ってきた。
「わかったよ山小屋の場所が。こっちだ。あの男性は?」
「まだ戻ってないわ。どうしたんだろう。」
「とにかく山小屋に入ろう。」
私たち3人は山小屋のご主人に暖かく迎えられた。
「今日は雨がひどかったから、大変でしたね。」
「ありがとうございます。すみません。こんなに真夜中に。」
午前1時半だった。非常識なんてものじゃない。しかし、ご主人は快く迎え入れてくれたのだ。
「あの男性は?。」
「誰かいるのですか?。」
「ええ、一緒に登ってきたのだけど。」
「少し明るくなってから探してみますよ。皆さんは早く休むといいですよ。」
寝袋にくるまって数秒で眠りに落ちた。
朝目が覚めて、澄み切った真っ青な空を見た時、生きてるって素晴らしいと感動し、命の尊さを実感したのだ。生きてて良かったと。
爽やかな風に吹かれながら朝ご飯を食べた。あの山の稜線と空と雲。もう一度見たいな。
「あの男性は見つかりました?。」
「この辺りを見て探したけど、誰もいなかったね。」
「そうですか。大丈夫なのかしら。」
「一人でこの穂高を登る人なら慣れているだろうから、もうどこかへ移動したのじゃないかな。あまり考えられないのだけどね・・」
私は今でもその男性を思い出す。と言っても、顔は暗くて見えなかった。つまり全体の雰囲気と声だけなのだが。本当に、たまたま出会った登山者だったのかしら。
もしかしたら、私たちを導いてくれた山を愛する魂だったのではないかと思うほどなのだ。私たちの前に現れた時も去っていった時も、あまりにも突然だったから。
下山してからひと月以上、その男性の消息をたどっていた。H氏が問い合わせをしていたようだ。万が一にも登山には遭難等の可能性もある。しかし、そのようなことはなかったようだ。私たち3人は、その頃ようやく緊張から解けて安心したが、
不思議な人だったね、と、どこか神妙な気持ちで話をしたものだ。暗闇の中で聴いた声や楽しげな笑い声、そしてチョコレートをくれた登山者。
日常の次元とは遠いところにいたのかもしれない・・・。
写真はネットからお借りしました。
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